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 頭上には雲一つない快晴。秋の日差しと、どこからともなく漂ってくる金木犀の薫りに包まれた山下公園に辿り着くと、まず嫌でも目に飛び込んで来たのがコンテナを五角形の形に積み上げたルック・デルーの作品だ。コンテナ自体はアートではなかろうが、このような感じで積み上げたりするとアートになってしまうのだろうか。いきなり現代美術に対する問題意識を啓発してくる作品であり、ややもするとマルセル・デュシャンの二番煎じとも取りかねない危うい作品でもある。そうでなくてもとにかく今回の祭典は作品をはじめ、入場ゲートやブースの囲いにもコンテナを使っていたりして、いかにも国際的な物流拠点としての横浜港を再認識せざるを得ない。
 入場ゲートから会場までかなりの距離があり、そのプロムナードを飾っているのが、この祭典を象徴しているともいえるダニエル・ビュランの作品だ。旗を両側から吊るすのに工事現場でよくみかける足場管を使用していて、いかにも安上がりな印象は否めないが、先ほどのコンテナと同じく、この足場管を使った作品や施設が他にも多く見受けられ、別の角度から見ると、まるでコンテナと足場管が主役のように感じられてしまったのは私だけだろうか。
 会場に入ると、いきなり出くわすのがこれまた足場管を使ったというか足場管そのものの巨大な作品だ。階段も作品のうちなんだろうが、何があるのかと期待して上って行くと、程なくしてまた同じように階段があるので下りるのだが、なんなの?というのが正直な感想だ。感激もなければおもしろくもないが、ある意味、現代美術というものを一番象徴している作品かもしれない。意味があろうがなかろうが、何かを表現することが現代美術なのだから。
 脇にあるこのブリキでできた牛が引いているものは、なんと石膏でできた子供の頭で、それがちょうど大きな丸い管の中にいくつか転がっていて、明らかに何かメッセージをこちらに送っているので考えたいところだが、はっきりいって多くの鑑賞者は考えないだろう。考えるのは芸術家や評論家だけでいい。それよりも我々鑑賞者はせっかくお金を払ってきているのだから、もっと感動したり楽しませて貰いたいものである。特に今回もいくつかあったが、社会派の作品にはうんざりするものを覚えてしまったのは私だけではなかろう。そういうものは公共のスペースに置かれればいい。とにかく出したお金に見合う展示をして貰いたいものだ。
 現代アート。それは時に無言であったり、騒々しいものであったり、そして時にはカフェであったりする。この蛸の足のような作品は中はカフェであり、外観はオブジェである。どこかの車のメーカーのCMが、デザインは大切だがそれと同時に機能的でなくてはならない…と、有名なデザイナーの言葉を流しているが、この作品は機能的と言えるだろうか?ある程度の空間があればどのアートもカフェになりうるのであって、この蛸の足の外観とカフェにはなんの繋がりもないと結論していいだろう。それよりか機能的にカフェを設ける事によって、作品としての存在は半減しているものと言わざるを得ない。しかしラインが有機的でもあり、完成度が高いので、公共スペースに設置しても面白いオブジェかもしれない。
 トラックが積んでいるコンテナの中にあるものが、作品なのだろうか?それともコンテナを積んでいるトラックを含めてだろうか?この中にあるもの、すなわちコンテナの内部奥の壁面に映し出された映像が作品だと考えていいのではないだろうか。コンテナとトラックは既製品であり、映像そのものとなんらかの関係が見当たらない場合、そう考えるのがもっともではないだろうか?マルセル・デュシャンのかの有名な“泉”という作品は便器を別の角度に置き換えただけのものである。便器は既製品であり、それ以外、何一つ手を加えられていない。現代美術の潮流がデュシャンから発しているものだとすれば、デュシャンを考えればいい。アーティストがトラックを含めて考えていたとすれば、トラックを含めたものがひとつの作品なのである。現代美術はなんでもありなのである。
 二つのコンテナの上に置かれてある黄色いもの。これはビール瓶らしきものを入れるプラスチックケースで、螺旋階段を昇って、周りがプラスチックケースでできた空間の内部に入る事ができるが、こちらの作品はカフェのような機能性はおろか、内部には何ひとつないただの空間が広がっている。美の基準は人それぞれ違うという前提をとるならば、この作者はコンテナの上に、こういった形でプラスチックケースを積み上げたら、なんとも言えぬ美しい巨大なobjetができたと感動したのかもしれない。
 さて言わずと知れた奈良美智であるが、実際見てみるとなかなかいい。家の壁に飾っておきたくなるような絵である。値段が付いていてお手頃だったら購入していたかもしれない。という風に現代美術はそもそも値段が付けられるものとそうでないものに二分するといってもよかろう。例えばパフォーマンスアート。購入できるだろうか?せいぜい金を払って自宅に呼んで演技して貰うとすれば、それも購入かもしれないが、いささかニュアンスが違う。パフォーマンスの映像をCDに焼き付けたものを購入した場合を考えてみても、それがパフォーマンスアートを購入した事になるのだろうか?
 7つの電話ボックスが中庭に設置されていて、最初はこれがアートだとは思わなかった。今の時代、大概多くの者は携帯電話を持っているので、おかしいなとは思いつつ、よくみると幾何学的に配置されている。現代美術の祭典なのだから、ちょっと置くのにもアーティスティックにと考えたのかなと思いつつも、やはり7つは多すぎる。中に入ってみるとこの電話は受信専用となっていて、受話器をとるとどっかのお母さんが都会に越して行った息子や娘に対して言うよくあるやりとりが一方的に聞こえてくる。自分のお袋でもないのに、知らないどっかのお母さんがさも自分の息子のように語りかけてくるので、気持ち悪くてすぐ切って出ようとするとベルが鳴り、受話器を取ると、今度はまた別のどっかのお母さんが同じように息子や娘の安否を気遣ったような世間話が聞こえてきた。ローカルとは普遍という事だろうか?
 二本の色線が何か回転するものに描かれていて、ぐるぐる回っているところを、一つの角度から撮った映像作品で、その固定された一つの角度から見たとき、その色線自体がくねくね動いているようにも見える。そして、すぐに思い浮かんだのは、バーネット・ニューマンの作品だった。この作品はニューマンの映像版だろうか?
 この巨大な鮫の死骸のような作品は何かの紙でできているようで、それが何なのか最初は分からなかった。ちょうど腹のあたりに中に入れる扉があって、これもまたカフェかなんかかなと思いつつ入ってみると、牛乳やジュースの紙パックが洗濯物のように干されている。これもまた何かメッセージがありそうな作品だが、牛の形をしていて、中を覗くと牛乳パックなら、まだ分かる気もしないではない。ようするにこのサメは牛乳やジュースの紙パックで作りましたよという種明かしを中に作ったということだろうか?そうでなくてもこのブースはちょうどすぐ目の前が東京湾で、いかにも巨大な鮫が陸揚げされたかの感じが出ててオブジェとしては、なかなかその場にマッチした雰囲気のある作品といっていいのではなかろうか。
 この瓦でできた作品は、会場の外の山下公園の一角に、静かに佇んでいた。家の屋根が地中に埋まっているようで、それをまた竜の背中のように作者は見せたらしい。メッセージがあろうがなかろうが、必然性があろうがなかろうが、アーティストは表現し続けなくてはならない。職業がアーティストである限り。
 以上、ざっとピックアップして解説してみたが、何もここに取り上げてある作品が他に比べて印象が強かったというわけではない。たまたま、いい按配で写真に収められただけである。なにせよ会場内は撮影禁止である。特に倉庫の中は。理由は聞かなかったが二度注意された。フラッシュをたくと迷惑が掛かるからだろうか?
 2005/10/15

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